◆細呂木 春日神社 (ほそろぎ かすがじんじゃ)

鎮座地

あわら市細呂木22-7

電 話

0776-75-1600

交 通

JR北陸芦原温泉駅または細呂木駅から金津町営バス細呂木元村下車、徒歩3分

【御祭神】天児屋根命
【由 緒】 「足羽社記」によれば、当社は以前『延喜式』に記載された保曽呂伎神社で、祭神は保曽呂伎神を奉斎していたと記されており、往古坂上田村麿深く当社を崇敬して社領32町を寄附したと伝えられている。社記その他の古記録によれば、一条天皇の御代寛弘8年(1011)当国押領使斎藤民部少輔伊傳河北に春日十社を勧請し、当社へ春日の神を奉祀された。十郷十社の一社で、細呂木春日大明神と称した。その後、保元元年(1156)当国司斉藤国貞主は伊傅の苗裔なる故奏聞して、勅使中納言時実卿、興福寺総公聞伊予法眼下向して奉幣あり、社領として六町九段歩を寄附、細呂木郷十七ヶ村の総社となった。
 室町時代、寛正4年(1463)の11月、越前国河口庄細呂木宜の年貢が上らないので、その代官大館兵庫頭教氏の更迭を興福寺の大乗院から中央へ出訴、一向に裁許がないため春日祭以下の神事を停止するという事件があった(『大乗院寺社雑事記』)。
 この河口庄の坪江・細呂木・鶴丸等は、春日社の神供料並びに勅願御講等、春日興福寺の重要な社寺領で、鎌倉時代の弘安11年(=正応元年、1288)後深草上皇が異国降伏を祈るため、唯識30講料所として、河口庄を春日興福寺に寄進された(『勘仲記』)という記録も残る。
 その故からも、この地に春日の神が祀られていることは当然のことである。しかし天正年間(1573~92)北地の争乱に書類が残らず焼失、慶長年中(1600頃)社領なども失うに至った。
 境内に「神乳水池」があり、往古義賢仙人が乳の出の少ない婦女のため祈願して湧出したものと伝えられ、今も各地からの参拝者が多い。
 明治9年6月指定村社に列格した。現在の社殿は明治22年9月造営したもの。
【宝 物】雅楽用大太鼓1基=大正期のもの/宮太鼓1基=大正期のもの
【例祭日】秋祭=10月10日