◆赤坂 春日神社 | (あかさか かすがじんじゃ) |
鎮座地 |
鳥取県西伯郡大山町赤坂城ノ内822 |
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電 話 |
0858-58-2727(宮司宅) |
交 通 |
JR中山口駅から徒歩約20分 |
【御祭神】 | 天児屋根命、素盞鳴命、倉稲魂命 |
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【由 緒】 | 『鳥取県神社誌』(昭和9年発行)には、旧記によると、当社は名和長年公が大和の春日神社から勧請した。延文年中、野津豊後守敦忠が八橋、汗入両郡のうち5万石を領し、当地に在館し当社を厚く崇敬し、新たに社殿を改築、社領を寄進し広大な社地を有し郡内でも屈指の大社に数えられている。当地は赤坂の城の一部で、豊後守は養中山下り松城またの名を石井垣城と称えた、とある。 ≪参考≫ 1、旧記とは天正14年記の後藤家8代目の祖の記録である。 2、勧請について一説あり。豊後守は延文2年奈良から勧請した。その際若者1人連れ帰り祢宜にした。それが後藤家だと。文久3年八橋郡村々諸事書上帳に記載されている。豊後守は正平年間(1346~70)より延文4年まで当地に在館、この間に正平9年から延文2年8月の間をかけて退休寺を創立した。延文4年5月23日、現赤碕町篦津地内において討死している。 3、後醍醐帝の隠岐脱出、名和長年は船上山へ奉迎、その時赤坂在住の掃部幸清(当時地頭か地侍か名和神社祭神とて祀られている)も加勢し、北條一門で伯耆国守護、糟屋弥二郎入道元覚が中山(赤坂)城に楯籠ったが合戦中火をかけられ落城した。その火は船上山からも見えたとあり、掃部幸清の功労恩賞の印に、次の春日大明神から勧請し赤坂封地として確立を深めたと思われる。後に豊後守は中山に進出し糟屋がいた城跡に居館を築いた。現在は「石井垣城」といっているが、ここを「下城ノ内」、神社地全域を「城ノ内」という字名が残っている。 4、船上山は東伯郡赤碕町が大部分であるが、西伯郡中山町有地もある。赤碕町の東隣町、東伯町に(旧古布在村宮場)貞観年中に勧請された主神天児屋根命を祀る春日神社があり、船上山合戦に際し春日神社に戦勝祈願され、神社より古幟等を船上山へ送った故をもって後醍醐帝より「古布ノ庄」の称号を受けたとの記録もある。 |
【例祭日】 | 11月23日 |
【祭祀】 | 元旦祭=1月1日/祈年祭=3月下旬/夏祭=7月上旬/新嘗祭=12月上旬/大祓=12月31日 |