◆西海 横瀬神社 | (さいかい よこせじんじゃ) |
鎮座地 |
西海市西海町横瀬郷3885 |
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電 話 |
0959-32-0227(宮司宅) |
交 通 |
佐世保市桟橋よりせがわ汽船「せがわ」で15分、横瀬西波止場下船徒歩10分 |
【御祭神】 | 天照大神、天児屋根命、品陀和気命 |
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【由 緒】 | かつて三社大権現と称したが、創建年代は不詳。『大村郷村記』の社伝によれば、以前は神山に鎮座したが、祭礼の際喧嘩口論が起こり遂には刃傷沙汰に及んだため、その社地を不浄の地として、寛文2年(1662)二月に現在地の丸山に遷座したという。 当神社が鎮座する横瀬浦は西彼杵半島のほぼ先端に面し、軍港として栄えてきた佐世保の出口付近に位置する。 かつてこの地は、ポルトガルとの南蛮貿易港として繁栄した港であった。当地肥前国大村領を治めた大村純忠の支配地であったが、永禄5年(1562)に南蛮貿易港として開かれた。以来、上町・下町の町が出来、豊後商人、大阪商人等の往来で賑わい、一躍、日本の歴史上に登場することとなった。 大村純忠は、その翌六年には、自らキリスト教に改宗し、ドン・バルトロメウと称した。港を見下す丘には教会、住院、またその尾根づたいには、大村純忠の館、大村館も造られた。 後に横瀬神社が建立されることとなる小高い丘一帯を丸山と称し、この地には遊里が設けられるほどの盛況ぶりであったという。 しかし、開港より1年後には、佐賀武雄の戦国大名後藤貴明の攻撃をうけ、南蛮貿易港としては短期間の生命であった。しかし大村領でのキリスト教、また南蛮貿易を考える際、その出発点となる地である。 当神社は横瀬村の鎮守で、現存する棟札によると、貞享3年(1686)、享保元年(1716)、元文3年(1738)、明和6年(1769)と少なくとも、四度社殿が再建されたことがわかる。 かつて三社大権現の本地仏として、十一面観音、正観音、千手観音の三仏を祀ったが、いつの時代かに紛失した。そのうち2体は旧社地の神山から掘り出され、残り1体も天保13年(1842)に現社地の丸山から出土したため、元通りに奉安したという(『大村藩郷村記』)。現社地丸山の地名は、南蛮貿易港が福田を経て長崎に移った際、この丸山の名も長崎に移り、遊廓街として賑わった。 明治3年11月に三社大神と改称し、同7年に郷社に列格し、社名も横瀬神社と改めた。 |
【例祭日】 | 秋季大祭=10月11日 |
【祭祀】 | 元旦祭=1月1日/夏越祭=7月末日/神待祭=11月末日/除夜祭=12月末日 |