◆野々市 中林春日神社 | (ののいち なかばやしかすがじんじゃ) |
鎮座地 |
野々市市中林2-20 |
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交 通 |
北陸鉄道乙丸駅からコミュニティバス「中林」下車、徒歩約3分 |
【御祭神】 | 武甕槌神 経津主神 天児屋根命 比大神 |
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【由 緒】 | 当社は春日社と呼んでいたが明治8年(1875)「中林」の二字を付けて今の社号に改めた。社伝では『養老(717~)の始め僧泰澄大師、越前国越智山の麓に祠を建つ。後萬寿年間の頃(1024)、京都嵯峨の僧義寛北地靈蹤を歴訪し越智山にてその祠堂衰頽を嘆き靈夢により此の地に移して祠堂を建立し春日明神と称す。これ当社の濫觴(はじまり)とす』と。この事は萬寿年間(1024~1025)の創始と云うことなのか。 『文治年間(1185~1190)橘山城来たりて当村に居館し館側を占って新に社殿を営み、神田を納め、藤原經氏をして祠官として郷民挙げて尊信の神と仰がしむ』とある。 『延元2年(1337)足利高經の與党この地に来たりて白山社と闘う。足利高經側は火を放ちて夜間遁走す。この時、社殿燔燎し、神寶また亡失す。その後再建すと雖も規模遂に旧に及ばず。約百年後の永享8年(1436)には姉小路少納言が北陸に徴行せし時、当社脇を通り親しく参詣し弓矢を献納し皇威の宣揚を祈願す。』とある。また『加賀の守護冨樫次郎正親は毎年当社へ参詣し奉幣さる。尚、加賀介冨樫植泰は除災を祈願し甲冑一領を奉献さる。また宇治道齋が冨樫氏の命を受け当社の祠官であった。』等とも伝えられる。 『永禄(1558~1570)の頃、本願寺の宗徒 深山某なる者社領を掠奪し境内を割地しその屋邸を築く。それで規模大いに損じて旧観の面影を止めず。然るに慶長8年(1603)、社殿炎上して弓矢甲冑の類みな焼失す』と伝えられている。 こうした歴史的事象は、口碑伝承に拠る他はない。古文書や銘刻など考証に資すべきものもない。ただ、神田神社神職岡本正親が久安6年(1150)の頃より兼帯したとあるのは創設の証として充分なのだろう。 |
【例祭日】 | 3月春季大祭 4月秋季大祭 |