◆三林 春日神社 (みばやし かすがじんじゃ)

鎮座地

和泉市三林町591

電 話

0725-55-0627

交 通

泉北高速鉄道光明池下車東南2.5キロ

【御祭神】武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神
【由 緒】古伝によれば、奈良朝の神護景曇の昔、常総の国より武甕槌命、経津主命が大和奈良の御蓋山に御遷座のみぎり、近郷の人々がこの地に頓宮を設けて迎え奉り、ついで天児屋根命と比売神を奉斎して春日神社と称し、以後、和泉国池田郷七ヶ村の鎮守として崇敬されてきたのであるが、この池田郷は奈良春日社の荘園として御神供の年貢を納めてきた土地と伝えられている。
この地には古くから光明皇后が鹿から生れたという不思議な伝説が伝わっている。江戸初期延宝九年(一六八一)編述の『和泉国国分村名所旧跡』や元禄九年(一六九六)の『泉邦四県石高・寺社旧跡井地侍伝』によれば、知(地)海上人が行をしておられた岩屋の所へ、ある時鹿が米てこの岩をなめて懐胎、生れたのが藤原不比等の娘、後の光明皇后であるという。つまり光明皇后出生の地であり、鹿の子なる故、両足が鹿の足に似ていたので以来足袋という物を用いた。今でも国分町には足袋屋という屋号の家が現存し、また、旧室堂村には照田・光田という田があったが、これは藤原不比等が勅使としてここを通った時、田植の男女の中に希有の光を放つ娘がいたという。これが光明皇后で、不比等が都へ帰る際、女鹿が現われて山坂で名残をおしんで見送った。その坂を女鹿坂という。地海上人、この女の子を養育、十三歳の時内裏に供え奉った。なお天平十年七月、行基が十四年の歳月を費して竣工した久米田池に、聖武天皇は光明皇后と共に臨幸されたとも伝えられている。
爾来、三林、和田、浦田、万町、鍛冶屋、室堂、下の池田郷七ヶ村が氏子として護持してきた。社地四万六百八十坪、享保三年(一七一八)神祇官より正一位を授かり、春日大明神と尊称された。明治四十三年池田村の村社無格社を合祀、大正七年七月には和田村小倉山の延喜式内穂椋神社、万町村中出の意賀美神社を合祀、現在に至る。
【例祭日】10月10日
【祭祀】稲荷祭=旧暦初午の日/冬宮祭=12月11日