◆本町 桑名宗社 | (ほんまち くわなそうしゃ) |
鎮座地 |
桑名市本町46 |
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電 話 |
0594-22-1913 |
交 通 |
JR桑名駅からバス「本町」下車、徒歩約1分 |
【御祭神】 | 桑名神社=天津彦根命、天久々斯比乃命 中臣神社=天日別命 相殿=春日四柱神(建御雷神、斎主神、天児屋根命、比売神) |
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【由 緒】 | 桑名宗社とは桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社を称し、古来桑名の総鎮守で、桑名首(おびと)の祖神を祀っているので、桑名宗社と言う。 桑名神社は平安時代、延喜式神名帳にその名の見える古社で、御祭神は天照大御神の第三御子天津彦根命と、この大神の御子天久々斯比乃命の二柱である。天津彦根命は国史にも見えた様に御子孫の殊に御繁栄になった神であり、また天久々斯比乃命は神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名地方の豪族)の祖神であるので一郡の開祖として仰がれ、その子孫は代々祖宗の御社に奉仕し大化改新後も郡司となって当地を支配した。景行天皇の御代にはすでに三崎大明神として崇められたりと記録があり古来桑名の地主神として、また郡府の総社として崇敬極めて篤い御社である。 古記録によれば、往古は現在の桑部村にあったが、景行天皇40年(110)には既に宮町あたりに鎮座して三崎大明神と称せられ、その後室殿町あたりに遷座されるも、幾程もなく同45年現地へ奠められた。 また中臣神社は神護景雲3年(769)常陸国鹿島社より建御雷神霊が御通過になった基址に祀られたと記録があり、その地は上野村と言われる。 中臣神社も延喜式内社で御祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれる。古くは現地より西方へ20町余も隔たった山上にあったのを、正応2年に桑名神社の境内へ遷し奉り、永仁4年に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀してからは春日大明神、春日さんと呼ばれるようになった。これより御社は繁栄の一途をたどり足利時代には幕府より三丁掛にて八百石、上之輪村に三百石の神領を寄進、応永2年・永正6年・天文20年と遷宮があり、永禄10年には吉田家より一の宮(それぞれの国で第一の資格を持つ神社)として許可された。永禄12年には織田信長より神領の寄進、天正年間には長島城主にて桑名をも兼領した滝川一益が社殿を造営した。 江戸時代に入ると、将軍・藩主の崇敬いよいよ深く、慶長6年、徳川家康より神領百石の寄進をはじめ、本多忠勝・忠政、松平定綱など歴代の桑名城主から次々と社領・営繕の寄進を受けた。明治になってからも元年の御東行、2年の東京遷都と、共に天皇・勅使がお泊りになるなど崇厳を増し、明治14年には県社に列せられた。また明治39年には三重県告示にて神饌幣帛供進指定社となった。 焼失前の拝殿は文化年間、楼門は天保年間に、いずれも桑名城主より造営されたもので、明治25年の大改造では諸戸清六より玉垣奉納を受けるなど社貌を一新、荘厳な一大社となったが、惜しくも昭和20年の戦災で全て焼失した。 敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解により昭和29年に拝殿が、そして59年には本殿。幣殿が、それぞれ立派に再興され、更に平成7年の春日神勧請七百年祭には記念事業として楼門再建計画が立案されてその竣功をみた。 |
【宝 物】 | 芭蕉短冊=貞享元年桑名来杖の節「明ほのやしら魚しろき事一寸 芭蕉桃青」市指定文化財/安南国書=弘安12年 旧重美/徳川家康画像=狩野探幽他、市指定文化財/平安期の銅鏡多数/鎌倉~江戸期の刀剣類多数/寛文7年桑名城主松平重寄進の青銅鳥居、県指定文化財 |
【例祭日】 | 桑名神社=8月17日 中臣神社=9月18日 |
【芸能・特殊神事】 | 石取祭(いしどりまつり) 国指定重要無形民俗文化財を受ける石取御神事は、桑名神社の大祭前期桑名祭(比与利祭)の中の一神事から、宝暦年間(1750年代)に分かれて発展した御祭である。 石取御神事は桑名市南郊の町屋川より清祓された神聖な栗石を運ぶ行事であった。その起源について、社地修理、馬場修理など諸説あるが、それだけでなく、私たちの祖先は石を生きて生長するものと考え、永遠性を認めたので、神霊の憑依するべきものとの信仰を持っていた。そしてその栗石で桑名の氏人の祖先を祀るために祭場を設け、神をお迎えする準備をするのが石取御神事である。 現在は「日本一やかましい祭」といわれ、毎年8月の第一日曜を本祭、前日に試祭が行われる。各町内の豪華絢爛な祭車に備え付けた鉦や太鼓を昼夜問わず打ち鳴らし、本楽渡祭で御神前へ奉奏する姿は勇壮無比なものであり、血がうずき、肉踊る、桑名市民誰もが待ち焦がれる祭礼である。 |